浅野×日本大学宇田ゼミナール生
2017年6月5日17:30~
はじめに
弊社zootieの企業理念は「テンション高めの女子を作る」というものです。
これは『zootieという企業を研究する』という研究テーマのもと、月に一度弊社東京事務所を訪れてくれる日本大学の宇田ゼミナールの学生の皆様と浅野との対談を書き起こしたものです。
『テンション高め』についてどんどん掘り下げていき、私たちが掲げる『テンション高め』という状況をなんとなく明文化できてきたところで、学生の興味はその起源についてに移っていった。
さて、今回もLOGイシ!
《wakaba》
すみません。何回もお話してもらってますけど、浅野さんが「テンション高めの女子」って言葉を見つけたきっかけってなんだったんですか?
《浅野》
固まるまで半年くらいかかったかなぁ。
6年くらい前に『理念を作ろう!』ってなって、社長もイシも含めて、7~8人くらいのメンバーで話をしていったんやけどね。
最初はインタビュー形式みたいな形で「浅野さんはどんな会社が作りたいんですか?」っていう感じの。要するに『起業して、何を大事にしてきたのか』って話な。それをホントに何日も何日も繰り返して、それがみんなに伝わったら今度は、「じゃあ浅野さんはどんな会社になったらいいと思いますか?」とか「どんなときにうれしいと思いますか?」とか、そういう感じにどんどん細かく因数分解してってん。
で、その時に「メンマ」みたいな話がいっぱいでてきたわけよ。
一通り終わった段階で「じゃあ、そういう感動を作れる会社にしましょう」とか「個性を大事にした会社にしたいよね」みたいな話になって、一旦は「個性発掘感動創造企業」みたいな経営理念になってん(笑)
ほんでみんなで、「さんざん話してこうなるか(笑)」みたいになって。
たしかに経営理念ぽいよ。
「個性発掘感動創造企業」ですよ。個性を発掘して感動を作り出すわけですよ(笑)
なんかちがう・・・てなって。
だって、こんだけ話してこんだけ聞いて、文字にしたらこれかい(苦笑)みたいな。
みんなもさ、動画作ってくれたりしたけど、あんなけ話して動画にしたら「なんかちょっとちゃう・・・」ってなったやん?
あんな感じでね。
もうほんまにあんまりしっくりこなくて。
んで、もう一周まわりだす。
もうホントに何周もしたなぁ。ぐるぐるぐるぐる。
で、ある時なんかの話の時に「ちがうねん、ちょっとテンションがふぁってあがる感じやねん。」みたいな話になっとってんね。
前からキーワードとしては出ててんけど、何周もぐるぐるしてやっぱり『テンションがあがる?』かもてなってね。
じゃあ「テンション高くする会社?」「テンション創造企業?」みたいないろんな話がでて、そこでもいろんな話をしていって、それって「テンション高い女の子作るみたいな会社だよね」ってなって。
そこからは「テンション」の話やね。
そもそもずっと話してたシーンてやっぱり「テンション高めのシーン」だったから、みんなその「高い」っていうところがしっくりこなかったんだよね。
そんで、テンション高いの続くと結構しんどくない?って話がでたんよね。だって常時「いぇーい!いぇーい!」みたいのってつらいよな。ってなって。
「私が『わっ』てなるのってそんなんじゃないわ。」って言ったりしながらまた一日中その話をしたりして。
その中で「ちょっとあがんねん」「ちょっと高めになんねん」とかっていうキーワードが出たときに、みんな『たかめ?!』ってなって、最終的に全員がしっくりきた。
でもね、その時本当はみんなの中にちょっと「経営理念てこんなんでいいのかな?」ってのがあったけど、もう最初に「個性発掘感動創造企業」というのが(笑)あったからもうあれには戻りたくないよねってなったんだよね。
「理念を決めよう」ってなった段階でいろんな会社の経営理念とか見たんだけど、やっぱり「感動創造」的なのが結構多いねん。だから「そこに近づけないとならない」っていう意識が少なからずあったんだと思う。
でも、なんか私たちらしくて、ちゃんとしっくりくる、腹落ちできるような理念がいいよねって。色々な当たり前に捉われんでもいいよねって。
そういうのを経て「テンション高めの女子を作るって」いう理念にたどりついたんだよね。
《wakaba》
じゃあはじめから作ろうととかじゃなくて、今まで働いていたなかで「作ってた」って感じでそれは無意識にやってたっていう感じなんですかね?
《浅野》
そうそうそう。
でも理念ていうのは、そもそも、創業者の心の中にはあるはずやねん。
例えば「利益最優先」とか「地域貢献」とか。
その社長の色っていうのがあって、その社長が大事にしているものってのがあって。
うちの場合はテンション高めの女子だったけど、利益をめちゃめちゃ出して、地域に貢献するっていうのをガツガツやってる社長とかもいて。
その理念っていうのは「いい」とか「悪い」とかの判断はできないところで、実際そこを目指してやっていることやから、全然それでいいんよね。
うちの会社は、「女子たちがテンション高め」になるシーンを増やしていけるようなことをやりたい。
それは、お客さんだけじゃなく社内でも、メーカーさんに対しても、関係する人たちみんなにそうしていけたらいいよねっていうのが、そもそも心のの中にあったもので、要するにそれがうちの理念だったんだな。
《rio》
じゃあ、それまでは理念ていうものをあまり意識しない感じだったんですか? それとも他の理念があったんですか?
《浅野》
ない。 だから作ってみようって思ったの。
要は、私たちのズーティーって舟が、向かう先が明確じゃないからみんなバラバラになんねんって。 みんな大事にしてるものがちゃんとわかれば、一緒にそれに向かってちゃんと舟をこぎ出せるやんか。 でもそうじゃないとみんな方々に漕ぎ出すから前に進まないよね? 結果的に真後ろを向いて漕いでる人もいる。 みんな一生懸命なんやけど、四方八方向いて漕いでたら前に進まないし。だから明確な目的を示そうっていう風にみんな思ったから。
そんで私たちが大事にしているものってなんなのかな?てなったときに、「そこだよね」って。
だから、今度さっき言っていた会社説明会をして、また新しくチームに入ってくれる人を呼ぶ場合も、こう、なんだろうね。なんか、「個性発掘感動創造企業」じゃ来てくれなさそうやん?(笑) 私たちが来て欲しいと思っている人たちは。 「ラーメンうまーい」の人たちが来ては困るから。 それで満足するような会社では困るから。
新しくチームに入ってくれる人を呼ぶときにもやっぱり大事な判断基準になると思うんよね。理念って。
《rio》
その理念を決めたときは「服」をメインに売り出してたんですか?
zootieとして。
《浅野》
うん。
《rio》
その服を売る前に、雑貨?を売っていたってことを聞いたんですけど、その時はほんとにファッション系の小物を?
《浅野》
服飾雑貨がメインだった。
アクセサリーとかね。
《yuka》
イーザッカって「イイザッカ」ですか?
《浅野》
そこか(笑)そこ掘り下げると非常にこそばゆい感じやねんけどね。(笑)
1999年にネットショップを始めて、その時はまだはじめたばっかりだったから、昼間は別のところで働いて、夜になったらお客様対応をしたり、土日に写真撮影して商品アップしてって感じでやっていたんよね。
で、ネットショップをやるときに、昔って検索がすごく単純で、今だといろいろ探してると、精度の高い順に出てくると思うねんけど、昔って「A」が一番上で、「あ」が一番上でみたいな、そういう時代だったんだよね。
なんか検索があほやってん(笑)
で、「E」てそこそこ上やんか?で、「イ」もそこそこ上やんか?
「あ」で始まるとか「A」で始まるとかいろいろ考えたんやけど。
・そこそこ上にあがってくるくらいで
・まったく同じ名前が存在しないって言う名前で
・「マニア」っていうキーワードをどうしても入れたくて
《yuka》
なんでですか?
《浅野》
わかんない(笑)
なんかマニアっていれたら普通じゃない感じがでる感じがして。
私、もともと人と同じなのが嫌いなのね。
人の真似をするとか、人と同じことをするっていうのを極端に嫌ってる人だったからかも。
そんで、やたら長い名前にしたくて。
だから「イーザッカマニア・・・」そんで最終的に「ストアーズ」までつけて(笑)
ながーーい!とかいうて一人で喜んでたんやけど(笑)
だからそこにそんなに惚れ惚れするようなねぇ、アレはないねんけどね・・・(照)
《yuka》
その「ザッカ」って「雑貨」てことなんですか?
《浅野》
えっとね、その時は全部カタカナで「イーザッカマニアストアーズ」って書いてたんよ。
《yuka》
「良い雑貨」なわけじゃなくて?
《浅野》
うん。そうじゃない。
昔はネットショップの頭に「e-」ってつけるのが流行ってたというか当たり前というか定説というか、そんな感じで。
今考えるとみんな「え?そうなん?」て思うかもしれへんけどね。
《yuka》
なんかみんなで、「良い雑貨」なのか「ECの雑貨」なのかなぁっていってて(笑)
《浅野》
私の中で「良い雑貨」はなかったと思う。まったく。
《rio》
最初に雑居ビルの2階ではじめたっていうのをみさせていただいたんですが、その時にもう「イーザッカ」としてお店をしてたんですか?
《浅野》
ううん。
一番初めに雑居ビルではじめたときのお店の名前は「MAT」っていうお店だったの。
《rio》
その時の2階のビルは、店舗として使っていたんですか?
《浅野》
うん、店舗としてです。
びっくりするほどひどい空き事務所みたいなとこでやってたんだよね。
《wakaba》
どんなお店で、どのくらい人が来てたんですか?
《浅野》
それがね、お店の内装は結構もう完全にオフィス仕様。オフィスに敷いてあるみたいなタイルカーペットみたいな床で、上は蛍光灯。しかも明るいやつ。
什器は買うお金がなかったから、ホームセンターとかで買ってきた木材で社長がトンカチトンカチやって作ってね。角がとがってるからって、わけがわからないくらいすっごいヤスリで夜な夜な毎晩毎晩2時間も4時間も5時間も毎晩「シャーッ、シャーッ」って、どんなけ丸くすんの!ってくらい手をかけて作ってた。
什器はみーんな社長のお手製。
だから什器も一個ずつ増えてくねん(笑)
しかもね、雑居ビルの2階っていうと、なんだろ今だとオシャレな感じがすると思うねんけど、もともと数の子屋さんの自社ビルだったところで、ものすごい横が狭くて縦に長い敷地に立ってたんだよね。
ものすごいほっそーーーい店(笑)
だからテーブル什器みたいなの置くと、もはや入ったらぐるーっと回らないと出れない(笑)
で、両壁に棚があって、あんまりにも細長いから、3分の2くらいをお店にして、カーテンして、残りをストックみたいな感じにして使ってた。
そんで、また螺旋階段なんよ。入り口が(笑)
もともと一階は数の子屋さんの店やったんよね。たぶん。
で2階から上は4階まで事務所やったんよね。きっと。
そんで建物自体が細長すぎて内階段がつけられんかったんだろうね。だからビルの前にずーっと螺旋階段。
だからお客さんがあがってくるとカンカンカンカーンてわかるくらい(笑)
しかも正面からは螺旋階段しか見えない。
だから誰も上がってけーへんやろって思ってたんだけど、なんかね、一生懸命張り紙したり、電飾つけたり、もりもりしてね(笑)もうね「ここはなんなんや!」っていう空気がものすごい醸し出されてる感じで(笑)
螺旋階段に商品つるしまくったりしてね。
もうとりあえず来てもらわないといけないから。
でもね、そのお店、一番売れるのがGWだったんだけど、とにかく常連さんが異常に多くて。
しかも売ってるものが今みたいに商品力があるものじゃなかったんよね。
今みたいに資金があるわけじゃなかったから、全部自分たちでタイとかにいって、ウィークエンドマーケットとかにいくと、わけのわからんものが良く売ってんのね。
「コカコーレ」とか書いてあるキーホルダーとかちょっと笑えるものが売ってて。
それを買ってきて一個ずつ磨いて値段つけて売る感じで。
とにかく変なものをいっぱい仕入れてきて。
なんかね、アジアって、『たわし』とかでもかわいいんよ。真っ赤とかで。
日本とかだと亀の子たわしみたいなのとか要するに「たわしはたわし」やん?
でもものすごいPOPやねん。ショッキングピンクとか。まっ黄色とか。
「『たわし』かわいいやん」とかいってたわしを買ってきてたわしを売るとか。
シルバーのアクセサリーもあって、たわしもあって、サンダルもあるし、タイビールのプリントTシャツみたいなものもあるしっていうようなお店だったんだけど。
GWの一番全盛期で、お客さんが渦巻いてもうて(笑)
一方通行やから、レジ終わって出て行く人と、2周目いく人と(笑)
そんくらい混雑したときがあって、そんときが一番売れたのかな。
《wakaba》
単価ってどのくらいだったんですか?
《浅野》
キーホルダーとかで300円とか。
シルバーのアクセサリーとかは3800円とか、琥珀のネックレスとかもやってたけど。
でも高くても5800円くらい。Tシャツとかで1500円くらい。
それがそんなに売れる感じでもなかったから、1000円以下くらいだったんかな?単価は。
《wakaba》
その時のお客さんて、決まった層っていうか幅広い層だったんですか?
《浅野》
うーんなんだろうな、あの感じ。
暇なおっさんとか、暇な大学生とかもおったし、なんかかわいい女の子が立ってたから、しょっちゅうパンとかもって遊びにくる男の子もおったし、近くに大丸があって、大丸にきたら必ず寄ってくれるおばちゃんとかもおったし。で、いわゆる雑居ビルが好きな若いオシャレな子もおったし。
学生の男の子とか変なTシャツとか集めてることかいるやん?なんか。
その子らが「マジヤベェ」とかいって買って行ってくれたりとか。
結構客層はバラバラだったんかな。今思うと。
《wakaba》
じゃあ浅野さんが仕入れするときとかは、そういう人たちに売ろうと思って仕入れるわけじゃなくて、浅野さんが面白いと思ったものを仕入れてたって感じなんですか?
《浅野》
うん。
自分が面白いなとかかわいいなとか思うモノを仕入れてた。
ただ、たまにお店に立ってると、「それかぁ~!」とかっていうものを見てくれてたりしたのをよく覚えてる(笑)あとはお店の子が「○○さんが、あれ見てめっちゃ興奮してましたよ。カエルが好きなんですって!」みたいな話をしてくれたりしてて、仕入れしてるときに思い出して「このカエルめっちゃいいやん!」って仕入れして帰ると、そのバイトの女の子が、「絶対○○さん好きですよこれ。絶対買うわ~」っていって、で、なんか日報とか読んでると、「○○さんがかってきました」とかいうのを読んで「やっぱりーーー」ってなったり。
あとは変な太鼓とかね。たたかないけど、かわいいっていって買ってく人がいたり。
バティックっていって、民芸品というか、布みたいなもので作ったバッグとか、スカートとか。
だから年配の人も結構いたかな。
モノが多種多様だったからお客様は多種多様だった。
その時は私もまだ25歳だったのね。
そんでバイトの女の子が18とか19歳。
もやはおねえちゃんと妹みたいな感じで。
「かおりさん今度うちでタコパするけどくる?」
「いくいくー」
みたいな感じやったから、行く→しゃべるをよくしてたのもあるし、書くのが好きな子だったからとにかくノートにいろいろ細かくお店の様子とかを書いてくれたりしてくれてたかな。
だからその子と話したり、ノートに書いてくれてたことなんかを見たりしたことが仕入れのときに頭の中にあって、そういうのも仕入れたりしてたかな。
《wakaba》
その雑居ビルのまわりってどういうお店があったんですか?
《浅野》
その当時は、あいてる空き地が車2台分くらいあいてたら、週末だけそこに、おじさんがどこで仕入れてきたかわからんような服を、屋根もないのに突然ハンガーラックをかを広げて売ったりするような場所だったんだけどね。お店っていうお店はないに等しい感じやった。
でも今は、高級なお店が軒並み立ち並ぶ場所になってる。
なんか私たちあんときほんまに路地の路地やったから。
今はもうバリバリの感じやけどね。
《wakaba》
じゃあ当時は似たような感じのものを扱っている店舗が多かったって感覚なんですか?
《浅野》
いや、てか、そこに店だすんや?って場所だったから似たような店舗が多かったって印象はないなぁ。
その後、うちが移転したあとすごい有名なカフェが店を出して、そのとおりが「マザームーン通り」って呼ばれるようになったりしたけど。でもその前だったんだよね。だから本当に安いから借りるみたいな感じの場所だったかな。その当時は。
神戸の花形の場所がその当時は高架下っていう場所で、今はその逆でMATがあった地域がいわゆる花形で、高架下は閑散としてしまってるんだけど。
《wakaba》
じゃあまわりと競争しているってよりは、自分が面白いものを仕入れてきてそこで売りたいっていう感覚だったんですか?
《浅野》
うーん。
ゆうてもお店があったわけだけど、社長も私も違う場所で働いていて。もちろん片手間でやってたわけじゃないんだけど、「店やりたいね」って言ってたタイミングで「ここ借りてみない?」っていう話があったから出してみようってなった。
ここにどうしても店が出したいっていうわけじゃなくて、本当に「ご縁」だった感じ。
だから、そんな内装の何にもないところだったから、いろいろ工夫した。
布をね、ほら、むき出しのいかにも事務所の蛍光灯って恥ずかしいやんか?煌々としてるし。今みたいな電球色とかなかったんやんか。だからそこに布をかけて、クリップの間接照明をいっぱいつけて。もういろいろと凄い店やった。
でもあん時の写真がないんだよな~。
カメラなんていったら、「ガリッガリッガリッ」てまわして撮るような「写るんです」しかない時代だったから。
デジカメがなかったんだな。
《rio》
その一店舗から初めて、「やっぱりもっとみんなに知ってもらいたいな」ってなって、ECをはじめたんですか?
《浅野》
社長が突然、「ネットショップやれ」って言ったから、「えーーー」って。
で、ネットショップていっても、その当時って、「パソコン」ていうのがまだ家庭に普及する前だったので、仕事的にプログラマーとかじゃないと家になかったんだよね。
本当にDOS画面で操作する、あの真っ黒なところにばーーーって文字を打って移動させるようなものだったんだけど、そのwindowsのちょっと前みたいのが主流だったとこにwindowsがでてきて「すげーー!」って。
「ウィンドウズ!」みたいな(笑)
もっと前からパソコンはあったんだろうけど、パソコンを見る機会ってのが私たちにはあんまりなくって。
それが95年くらいかな?
もともとは、私が就職したところで始めてパソコン見た、みたいな感じやったんね。
その後、99年くらいにはパソコンを企業が使い始めたんかな?
私は前の会社で日報も起案書も全部パソコンでやんなきゃならなくて、その会社で覚えざるを得なかったからそこで覚えてたんだけどね。
そんで、ひょんなことからパソコンを買うチャンスがあったから、家にパソコンがあったんよね。
パソコンがあるからお前できるやろっていう、社長の安易な発言(笑)
いや、ていうか、私のパソコンオンラインになってないから(笑)パソコンはもってたけどネットにつないでなかったから。みたいな(笑)
その当時は、電話回線をつかってダイヤルアップで、「ピ~ヒョロヒョロヒョロヒョロ~」ってやってた時代だったので、要はつないでる間中ずっと電話代がかかるっていう時代やってん。
で、そんなときに社長に言われて、本屋さんに走って、ネットショップってどんなんやんかな?っていうのを初めてみた感じ。
《wakaba》
じゃあ、これからネットで売っていけば売れるだろうていうかそういうことじゃなかったんですか?
《浅野》
社長に聞いたら、もはやこのチャンスというか「今」はじめないともう手遅れじゃないかって思ってたみたい。
だからもちろん主流ではなかったんだけど、要は、『先行者メリットみたいなのはもうココにはない』って、1999年のタイミングで思ってたらしくて。
でも私は知らなかったから、「何をこの人は言ってるんだ」って思いながら、言われるがままやったけど。
社長は、まだ99年の段階ではまだそんなにメジャーではなかったけど、その後3年間くらいは大手がそこまで入ってこないだろうって見込んでたらしくて。
で、その3年の間にノウハウを身につけて大きくしてやろうって思ってたみたい。
大手が入ってきたら、私たちみたいな零細企業がネットの場で活躍できるわけがないって思ってからなんよね。だからものすごいバタバタとネットショップ立ち上げて。
その予想通り、3年くらいたって大手がオンラインに参入してくるんだけど、なぜかどこもどうもうまくいかなくて。
その間に私たちみたいな小さい会社がどんどん広げていって、取り扱い商品の幅も広がってくるし、金額も上がってくるしみたいな感じで。
この10年も経ってないな、最近ほんとに5~7年前くらいのタイミングからすっごい大手がどかどかーって参入してきたって感じかな。
私たちの読みでは3年後にだから、2003年とか2004年とかの段階でくると思っててん。
でもその間に私たちには、その大手よりも何年も前からやってたぶんの蓄積していたノウハウがあるから、例えば物流のこととか、バックヤードのこととかもそうなんだけど。
今大手さんがおるけど、うちも商売していられるのは、やっぱその期間に蓄積されたものが大きかったんかな?って思う。
《rio》
社長さんにネットショップをやれって言われたその時は、2階の店舗だけだったわけじゃないですか?そっからどういう感じでネットショップとして変わっていったのかな?って。
その雑居ビルで売ってたものをネットショップで売ってた感じですか?
《浅野》
えとね、私がネットショップをやってたのは家なんです。
わたしあんまり店にいけなかったので。ゆうても別のとこでお勤めしてたんで。
家の一室でパソコン触りながら、朝になったら会社にいって、で、会社に行くまでの通勤時間で、HTMLとかの勉強をしながら。「おお!こうやったらチカチカすんねや!」とか、もう改行しかわからない時代から、色々なテクニックがあるってことを勉強して。
そんで帰ったら早速試してみるっていう。
っていうかさ~、わくわくするよね。やったことないことをやるのが。
その頃友達とかに「最近浅野なにやってんの?」とか言われたら、「ネットショップやってんねん。」ていうと、「わ、なんかやばいこと言い出したこいつ。」みたいな目で見られるねん。
だから、うちの母親とかに言ってももう、超怪しまれたよね(笑)
そんな感じだから、ネットで買い物したことがある人が周りにゼロっていう。周りはそんな環境。
だからさ、周りのみんながほとんどやっていないことをやるっていうのが私にとってはとてもワクワクすることだったんよね。
そういう感じで、ネットショップの仕事を家でやってたわけなんだけど、家と店が自転車でいける距離やったから、社長に、いっぱい商品を持って帰ってきてもらって写真とってページ作って、また店に持っていってもらう。
私はページを作ってお客様対応をする。
そんで、注文あったら、プリントアウトして、店で商品をバイトの女の子に梱包してもらって、それを発送してもらう。
だから出荷はバイトの子がやってくれてた。
伝票ももちろん手書きだったから、バイトの子がひたすら伝票を手書きしてくれる感じやってん。
だから出荷が多くなると、もうしゃべっててもそのバイトの子の手が震えてるねん(笑)
「だ、だ、だいじょうぶ?」とかっていうと 「ちょっと、ちょっと今日出荷が多かった」みたいな。
《rio》
今イーザッカで全部手で包装するとかっていうやりかたはその時から得てるもので・・・とかそういうことが多いですか?
《浅野》
そうだねぇ。
うちが同梱しているこのコースターの裏のこの文章は、ほぼその当時とかわりない文章。創業当初から一緒やねんけど、これ、その当時全文手書きしててん。
店のスタッフの子が。
たまたまその子と「凄いよね、ネットでなんの広告も出してないのに見つけてくれて、で、買い物してくれて、お金振り込んでくれんねんで。やばいよね。凄いよね。」って話をすることがあって。
じゃあ「この『凄いな』って思う気持ちをお手紙に書いて送ろう!」ってなって。
最初ほんとにただの白い紙にこれを全文書いて送ってた。
で、ちょっとしたらそのうちその紙を厚紙にして。
そんでね、その子猫のイラストを書くのが上手やったから、猫の絵を入れてみたり。
そしたら猫が好きな人がメールくれるわけよ。
それが嬉しくてね。「さくちゃん、また猫喜んでくれたから、猫増量で!」とかやってて。
それをずっと手書きで書いてくれてたんだ。
だから発送に関しても根本的に店の子がやるっていう前提で考えて工夫してた。
紙袋で送っていたから、破れてしまったら中のものがぬれてしまうから、ビニールの内袋をつけたり、お手紙をつけて送ったりね。
あとは、その当時売り物でうってたブタの小さいビニールの人形を「これ一個つけとってあげよう」って。かわいいから、「ありがとう」の気持ちとして一個いれてみたり。
そういう「ありがとう」の気持ちをどうやってあらわすかっていうのをそのスタッフの子と一生懸命やってた。
そんな感じでやりはじめた。
今もそこの根本的な部分は全く変わっていないから、それを考えると今のうちの出荷のやり方ができたのは、その当時だよね。
でも、今みたいに資材を買うお金もなかったから、梱包の見た目は今よりもずーーっと質素で、チョップしたら破れちゃうような一番安い封筒を使ってたなぁ。
それからしばらくしてちょっと出荷が増えてくると、アルバイトの子をもう一人入れて、一人はずっと出荷やってるかんじだったんね。
そしたらそのうちみんなの手が震えだすわけよ。
お手紙全文手書きだし、伝票も手書きだからね。
だからもう私が耐えられなくなって。見てられないじゃない?
だから「さくちゃん、もうほんまに、これ印刷しよ?」って言ったのね。
その子らは、私が気づかんように、家持ってかえって書いたりしてて、いっぱい書いてもってくんのね。
そのときに「そんなみんながしんどい思いしてやんのは違うと思うねやんか。」ていったら、ものすごい怒られてん。
「かおりさん言いましたよね!「ありがとうの気持ちをここに書いて、お客さんに伝えよう!」って言いましたよね」って。
でも、もうほんまに手が腱鞘炎になったりして、「もうやめよ」って。
「うん、まぁ言ったけど、でもさくちゃんボロボロやん」て(笑)
いっぱい話ししてね。
じゃあ、自分の名前とありがとうございましただけは手書きしよってみんなで話し合って決めて。
そっからこれが印刷になったん。
今のスタッフにもその話をするんやけど、その頃からずっと自分の名前とありがとうを手書きするという文化がうちには残っている。
入ってきたばっかりの子やと、「わざわざ『ありがとうございました』を手書きすると大変なのになんでこんなことすんねん。」って思うこともあるから、その時にこの話をするんだよね。
だから、その頃にやってた事は今もやってるなぁ。
形もやり方もちょっと進化してきてるとは思うけど、根本というか根っこは変わってないみたいな。
▼創業時から変わらない『お客様へのありがとう』の文章
今は『ありがとう』部分と自分の名前を手書きで入れています。
《rio》
MATからイーザッカマニアに名前を変えてネットショップを始めたじゃないですか?
それで、大手が入ってくる間で、自分たちのノウハウが入ってきたって言っていたんですけど、どれくらいから、MATの商品がどんどん増えていって、このイーザッカの形に近づいていったんですか?
《浅野》
実はあるタイミングで、今の事務所がある近辺に、ま、今もうちの店があるんやけど、そこに移転したときに、洋服も仕入れ始めるようになった。
韓国とかいって仕入れるようになったんかな。
で、やっぱり同じようにその時はお店にあるものを売ってたんやけど、お店だと、そんなにコーディネートとかあんまり気にせずに商品を売ってたんやけど、ネットだとやっぱコーディネートで売りたいなって思ったんよね。
結構ドギツイものとドギツイものとドギツイものしか売ってなかったから(笑)
スタッフから「かおりさん白いカットソーとかないんですか・・・?」って(笑)
「ん~~・・・ない!」って(笑)
だからそういうものをネットショップ用に仕入れしようかって。
それから国内で仕入れるようになったりしたんです。
そんな感じで小さな雑居ビルから始まったんだけど、ちょっとずつ、ちょっとずつ変わっていったというか、改善していきながら今のイーザッカになったって感じです。
6/5の書き起こしはここまで。
ではまた次回のLOGイシで。